「死にたい」と免責

いい加減「死にたい」から解放されたい

ここ数年ずっと死にたいと思っていました。 もちろん、死ぬことは目的ではないです。 死ぬことに託して、人生をどうにかすることを赦してもらいたかったのです。

もっとどうしていいかわからないことを考えるのが面倒で、情けなくて、死ぬことを手段にしていました。 それによって生きる責任を免れたかった。

ただ、決行したこともありましたが、結局今まで生きています。 自分は死ぬことを手段にできないようです。

手段にできないのに死ぬことばかり考えていても辛いだけで救いはありません。

免責

死ぬことを手段にできない以上、生きる責任をもって自己制御しなくては。 私が人生をどうにかする、、。

この人間関係もモノも文化も感性も乏しい状態で何ができるでしょうか。

もちろん、乏しく貧しいのですから、急に人生を豊かにする意思決定なんてすることができません。 意思決定は今の状況に依存していて、今の状況をつくったのは過去で、過去は変えられないのです。

今の状況では決断ができない。 そのことを受容し、「今」将来の算段をつけることは免責します。 できないことをしようとしても無駄なのですから。

ただ、過去から積み上げられてきた状況の貧しさのために、今の決断を免責したとしても、 今から状況を改善することで、やや近い将来になんらかの意思決定をできるようになるかもしれません。

今日を少しでもよくする

なので、今から状況を少しずつ改善することに取り組んでみます。 今の自分には、1週間どころか明日すら荷が重いので、まずは今日を少しでもよくするところからです。

今日(あと2時間)の目標

  • 今後の作業スペースである机周りを整理
  • 部屋の動線を空ける
  • 23時までに寝る

こんなものでしょう。